先日、新国立美術館で開催されているクリスチャン・ボルタンスキー展を見てきました。
彼のひとつひとつの作品をテーマに沿って見せながらも、展覧会の空間全体をひとつの大きなインスタレーションとした構成は圧倒的でした。
会場に入って最初の狭い部屋で上映されたふたつの醜い映像作品は身体の拘束や病、性などの表現によって死を予感させることで「生」を想起させることに成功していたと思います。
この映像の部屋をプロローグとして観覧者は「DEPART(出発)」の表示に従いボルタンスキーの表現世界へと進みます。
続く部屋からは1900年代前半のものと思われる数多くのモノクロの写真が登場します。
それらの写真は、はじめノスタルジーを感じますが徐々に変容して不気味さを漂わせ、やがて祭壇の遺影のようなオブジェとなります。
ここまで来ると鑑賞者はボルタンスキーがユダヤ人であることを思い出して作品にホロコーストとのつながりを見ようとします。
天井から人の顔が印刷された大きな薄手の白い布が数多く垂れてた展示スペースの床に設置された数え切れないくらいの黒いコートを積み上げて作ったボタ山は圧巻でした。
ボルタンスキー自身が手掛けたという今回の展覧会の空間構成の中で私は「死」をモチーフにした個別性の照射を感じることができたような気がします。
ところが、、です。
ボタ山から後の部分、「未来」と漢字で電飾されたところから後の作品はどう鑑賞していいのか私にはさっぱりわかりませんでした。
もし、この展覧会を見たお客様がいらしたら最後のエリアをどう見たかぜひ教えて下さいね!